i-Podに感謝している、エルヴィスは路上で聴くのが一番いいからだ。
画面の中央で、首を斜めにしたライオンが吠える。
一転して、観客は雪が降り積もった路上に立たされる。
店先の光景から、速やかに店内にカメラは移動する。
そこでは、バンドが弾んだ演奏を展開している。
中央には黄色いジャケットに身を包んだエルヴィス・プレスリーが<ガール・ハッピー>を熱唱している。
エルヴィス・プレスリー主演映画「フロリダ万才」のオープニング。
エルヴィスであることを除くとどこにでもある光景だ。
しかし・・・・その昔。
ジャズにおける”ビーバップ”さらに”クール”、ポップスにおけるロックンロールが社会に果たした功績は非常に大きなものでした。
なかでもエルヴィス・プレスリーは決定的でした。
白人エルヴィス・プレスリーが果たした大きな役割のひとつは、人種差別への白人への一撃でした。
同じことは、黒人マイルス・デイビスによる”クール”による人種差別への黒人への一撃でした。
両者は、純粋に自らの音楽を楽しんだだけです。
にもかかわらず、両者は属するコミュニティーから非難を受けました。
音楽への純粋な希求が、時代の空気に火をつけてしまったのです。
偶発的に見えますが、そこに踏み込んだ両者の心の奥深いところには「コンプレックス」が あったと思います。
特に黒人コミュニティーのある文化を白人コミュニティーに、ほとんど問答無用に持ち込んだエルヴィス・プレスリーへの攻撃は音楽史上空前絶後の凄まじいでした。
エルヴィス・プレスリーが果たしたもうひとつの功績は、女性は家にいなければならないという社会的な要求から解放したことです。
白人と黒人の間にある差別の壁を越えたことを、いちはやく察したのは、社会的に抑圧されていた女性たちだったのでしょう。
その先には、ベトナム反戦運動や公民権運動に連動するように、1960年代後半「ウーマン・リブ Women's Liberation」が起こります。
「男女は社会的には対等・平等であり、社会的・文化的につくられ性別による差別や区別の壁を取り払うべきだ」と考え方のもとに、女性の権利や自由の獲得を主張する女性解放運動です。
そのうねりはやがて世界中に広がりフェミニズム及びジェンダーの出発点となりました。
その結果、現代の女性は、ビジネスヘの男性的な興味の両方をもつことを奨励されているにもかかわらず、その大多数は、いまだに社会的な「すべきこと」に追われているのが現状です。
すでに他人、社会から、女性はどうあるべきかが定義されていて、その考えは男女ともに根強くあります。
おかげで女性は男性ほどには、個人として自分を形成する責任が問われない傾向にあります。
その一方では、何世代にもわたって作りあげられてきた女性の特有のあり方が、あきらかに変化しています。
そのため 、男性と同じように、女性も人間としてより成長することを求められています。
この奇妙ともいえる「二面性」のため、今日の社会において、女性でいることは、以前よりもずっと複雑です。
「男女雇用機会均等法」にはじまり、「キャリアウーマン」「スーパー主婦」などは、葛藤の最たる事例です。
また 露出度を増すファッションは、女性が女性であることを強調することで、女性性を弱めるという「二面性」がさらに強化されているような気がします。
かって時代の閉塞感を切り裂いたエルヴィス・プレスリーの歌声は、この複雑な時代に、なんらかの役割を果たすことはないのでしょうか?
そんなことを考えるのは、時代遅れなのでしょうか?
エルヴィスによって解放された女性は、いま幸福ですか?
現代の女性へどんなメッセージを送ろうとしているのでしょうか?
エルヴィスの歌がどのように力を持つのかを決めるのは、
エルヴィス・プレスリーを聴いてきた人たちではないかと思うのです。
GIRL HAPPY
女の子がいればハッピー
そう、女の子がいればハッピー
女の子がいればハッピーさ、わかるだろ
どの娘を見てもかわいいな
なんて楽しい暮らしだろう
僕の人生は何もいらない
キレイな女性以外はね
女の子がいればハッピー
そう、女の子がいれば
ハッピー女の子がいればハッピーさ、わかるだろ
力ワイコちゃんを見るたびに
ハ一トが宇宙の果てまで飛んで行く
女の子が必要なんだ
人生を生きる価値のあるものにずるために
女の子がいればハッピー
そう、女の子がいればハッピー
女の子がいればハッピーさ、わがるだろ
ずっとこうだったんだ
小さな赤ん坊の時からね
初めて看護婦さんがあやしてくれた時は
うれしくて飛ぴ上がりそうになったものさ
お母さんたち、娘さんを隠したほうがいいよ
今夜はロマンチッグな気分だから
僕の人生は何もいらない
キレイな女性以外はね
女の子がいればハッピー
そう、女の子がいればハッピー
女の子がいればハッピーさ、わかるだろ
ずっとこうだったんだ
小さな赤ん坊の時からね
初めて看護婦さんがあやしてくれた時は
うれしくて飛び上がりそうになったものさ
女の子がいればハッピー
そう、女の子がいればハッピー
女の子がいればハッピーさ、わかるだろ
女の子がいればハッピー
そう、女の子がいればハッピー
女の子がいればハッピーさ、わかるだろ
| 現在のぼくの他の友人たちは全部「イソテリ」だ。チャドは二ーチェ的た人類学者だし、力ーロ・マークスは風変りな超現実主義者で、低い声で話すときにおっかない眼で相手を見つめるし、オールド・ブル・リーは批判的に何にでも反対する気取った話しぶりをするしーそうでなければ、エルマー・ハッセルのように憂うつな冷笑をうかべているこそこそした犯罪者連中だ。
ジェーソ・リーだって同じことで、彼女は寝椅子の東洋風ベッド・カバーの上に寝そべって、「ニューヨーカー」誌を嗅いでいる。ところが、ディーソの知性はどこをとってもきちんとしたもので、洗練されて完全で、たいくつな知性的臭みが少しもない。それに、彼の「犯罪性」は、すねたところや廟弄的なところがなく、アメリカ人の喜びを頭から肯定して熱狂的に爆発させるようなものであった。それは西部特有たものであり、西風であり、大平原の好情詩であり、久しく予言されていたがらやってこなかったある新しいものなのだ(彼が車を盗むのは、ただ乗る喜びからなのだ)。それに、ニューヨークの友人たちは、みんなたいくつた型にはまった、政治的た、あるいは精神分析的た理由をくっつけて杜会に反抗するという消極的で悪夢のような立場に立っているのに、ディーンは懸命にパンと恋を求めて、社会の中を疾駆していた。パンと恋とどちらであろうと彼は一向にかまわなかった。「股のあいだに穴ぽこのある女の子なら、それでいいのさ」そして、また、、、、、、、、、、、、、「食えさえすればいいんだ。分るかい。おれは腹ぺこさ。おれは飢え死にしそうだ。すぐ食いに、、、、、行こう!」ーそこで、われわれはそれっとばかり食べに行く。まるで、伝道の書に、「そは天が下において次の取り分なり」とあるように。
「路上」(ジャック・ケルアック 福田実:訳 河出書房新社) |
エルヴィスの命日にグレイスランドに行ったらわかることがある。
行く機会のない人には「グレイスランド」というロードムービーがDVDやビデオで見ることができる。
それは劇映画で実話ではないけれど、グレイスランドで起こっていることの向こうにある人間の真実が分る。
つまり・・・エルヴィス・・・その存在がなんであれ、なによりも先に今日を生きる者の歌だった。
ロックンロールが知性に料理されて、ロールがキッチンのゴミ箱に紛れ込む前には、エルヴィスもロックンロールもそうだった。