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エルヴィス・プレスリー、エルビス・プレスリー、ロック
MY HAPPINESS
マイ・ハッピネス

テネシー州メンフィス。
夢を実現するために起業した28才のサム・フィリップス。音楽のことを知らないけれど、サムを助けたくて共に働くことを決意した6才年上のマリオン・キースカー女史。1950年1月、ふたりが手作りで作り上げたメンフィス・レコーディング・サーヴィス(サン・レコード)は、サムの「自分には他者の長所を見抜き伸ばす力がある」あるいは「黒人たちが自分の音楽を気楽に演奏できる場所を作りたい」といった言葉によって地元でも知名度があがっていた。

1953年7月18日午後、土曜日。
L.C.ヒュームズ高校を卒業して、地元M・B・パーカー機械製作店で働いていた18才のエルヴィス・アーロン・プレスリーはプレンシジョン・ツール・カンパニーに転職する準備していた。
一方では、新聞記事で見つけたサム・フィリップスの音楽に対するポリシーに惹かれていた。
安物のギターを大事に抱えた、身なりがいいとはいえない金髪の青年は、いまにも逃げ出しそうな風体で、メンフィス・レコーディング・サーヴィスの扉を開いた。
その扉はエルヴィスにとって、抑圧になれていた自分を解放する唯一の扉でもあった。

ユニオン大通り706番地/メンフィス・レコーディング・サーヴィス
サムは留守でマリオンだけだった。
エルヴィスは料金を緊張した表情で尋ねる。
アセテート盤両面に録音した場合の料金
   税込み 3ドル98セント。
アセテート盤両面に録音+バックアップ・テープをつけた場合の料金
   税込み 4ドル98セント
   
税込み 3ドル98セント、アセテート盤両面のみの録音を選択する。

「誰か歌手を探していませんか?」
マリオンは尋ね返す。
「あなたはどんな歌手なの?」
「どんな曲でも歌います」
「どんなふうな声なの」
「ボクは誰にも似ていません」
「何を歌うの?ヒルビリー?」
「ええ。ヒルビリー」
「ヒルビリーではどんな感じなの?」
「ボクは誰にも似ていません」

エルヴィス・アーロン・プレスリー
どもり気味に照れながら緊張しながら話すエルヴィスだが、「ボクは誰にも似ていません」という一点については、一歩も妥協しない強さがこもっていたようだ。
「抑圧と自分を信じる心」この谷間を駆け抜けながら、世界を変えた男。
これこそがエルヴィス・アーロン・プレスリー、その人の真の姿だ。


終わりと始まり
エルヴィスは最初に<マイ・ハッピネス>2曲目に<心のうずくとき>を録音する。ともにインク・スポッツの歌っていたバラードだった。
エルヴィスは「バケツを叩いているようなひどい歌だ」とコメントし、
マリオンは「有能なバラード歌手」とメモを残す。

録音は終わった。

後日、マリオン・キースカー女史はサム・フィリップスにテープを聴かせる。
サムは特別な感銘を受けず、エルヴィスも、マリオンも、サムにも、何ごともなかったかのように、何気ない日常がくり返された。

そして世界を変えた事件は、静かに、ゆっくりと、始まった。

録音の動機
<マイ・ハッピネス>は永い間、エルヴィスのコメントのままに「おかあさんへのバースデー・プレゼント」が定説だった。
後日、エルヴィスはこの日のことを回想し、「あの日どうしてそんな気になったのかはっきり覚えていないが、自分の声がどう聴こえるるか知りたかった」とコメント。

しかしエルヴィス他界後、エルヴィス研究が進み、「挑戦」であったとする見解が定説に変わった。それと共に、公式には誰も聴いていない<マイ・ハッピネス>がクローズアップされるようになった。
様々な憶測が流れた。『エルヴィス登場』では、録音にサム・フィリップスが立ち会ったことになっている。

エルヴィスはバックアップテープを頼んでいない。マリオン・キースカー女史のいうテープは本当に実在したのか?さらには本当にレコーディングされたのかなどの疑惑が起る。

消えたテープ
マリオン・キースカー女史は、取材のなかで、それはどんな音楽だったのかという質問に「一般にソウルと呼ばれているものだったわ」と回答する。それこそがマリオン・キースカー女史の興味の対象だった。「黒人のフィーリングで歌える白人がいたなら必ず儲かる」がサムの口癖だったからだ。サムの成功こそマリオンの願っていたものだ。

しかし一介のおどおどした白人の田舎青年の歌をバックアップテープに録音するに値する価値あるものと事前に判断できないのが普通であるなら、中途から急いで録音作業にかかるのも普通である。
つまりもしテープが実在するなら、エルヴィスの歌を聴いてなんらかの衝撃つまり「この子にはサムシングがある」と思いテープに残したことになる。で、あるなら仮にテープが発見されても、一部しか録音されていないものしか存在しないことになる。というのが定説であった。


アセテート盤
1988年、長い間所在が不明だったアセテート盤を元クラスメイトでパイロットだったエドワード・リードが所有していることを名乗り出る、「エルヴィスは最初、彼のお母さんにプレゼントするために録音したらしいが、キミにあげるよってくれたんだ。」とコメント。マリオン・キースカー女史が検証し「あの時のものに間違いない」と断言。世界中のファンに衝撃と感動を与えついに歴史的なレコードは世界に公表された。
そのメディアとなったのが、『マイ・ハッピネス〜グレイト・パフォマンス〜』だった。

伝説の音源。そしてELVIS WEEK
エルヴィスの人柄がそのまま聴こえてくるサウンドだ。
緊張とうまく歌いたい願望が一緒になってぎこちない滑り出しで始まる。


夜の影が僕をブルーな気持ちにする
うんざりするような一日が終わる頃
君に会いたくてたまらない
ボクのしあわせ

毎日、ボクは思い出す
その甘いくちづけ
いつも君が恋しいよ
ボクのしあわせ

まるで百万年が過ぎたかのように
ふたりが夢を分かち合ったあの頃から
だけどまた君を抱きしめることができたなら
悲しい思い出も消えるはず

空が晴れても曇っても
地球のどこにいようとも
君さえ一緒にいられたら
ボクのしあわせ

まるで百万年が過ぎたかのように
ふたりが夢を分かち合ったあの頃から
だけどまた君を抱きしめることができたなら
悲しい思い出も消えるはず

空が晴れても曇っても
地球のどこにいようとも
君さえ一緒にいられたら
ボクのしあわせ

ピエロにはこの君とは「ほんものの自分」の気がしてならないのです。
もちろん勝手な妄想です。
エルヴィスは1948年にヒットした曲を歌っただけです。
それにしても、高校を卒業して1年ほどの間に3回も職場を変えています。
どこか父ヴァーノンをなぞっているような気がします。
母グラディスの躾の影響で元来自分に対して抑圧的だったエルヴィスが社会生活を営む上で、より抑圧的になっていたのではないかと察するのです。”うんざりするような一日が終わる頃、君に会いたくてたまらない”という歌詞にひっかけるわけではありませんが、その通りだったのではないかと思うのです。そしてこの歌詞の君とはまさしく本当の自分なのです。
こんなことをしていていいのだろうか?という生活への疑問と不安。

そこからエルヴィスはサムシングを求めて動いたのです。
そしてマリオン・キースカー女史はサムシングを感じました。
「それは人々が”ソウル”と呼んでいるものだったわ」
そうです。「真に生きようとする魂」があったのではないでしょうか?
このマリオン・キースカー女史は、黒人に対する偏見を嫌い、経営者と喧嘩別れし、金もなく起業したサムを助けようとした女性です。サムの恋人でもありません。人間の尊さに対して敏感だったのではないでしょうか?

エルヴィス・プレスリー、エルビス・プレスリー、ロック

エルヴィスの真実
エルヴィスは最初の録音から一躍スターダムにのしあがったわけではありません。
1954年1月4日、再度エルヴィスは自らユニオン大通り706番地/メンフィス・レコーディング・サーヴィスの扉を開けます。そしてサムの心は動きます。より強く熱い魂がサムの心を動かせたのです。

エルヴィス・プレスリーの真の偉大さは歌の上手さとか、声のよさではありません。
ともすれば才能を闇に流し、人生を無為に過ごしてしまう、平凡な人々。
もっと正確にいうなら「平凡だ」と思い込まされた人々。
エルヴィスは間違いなくそういう人だったと思います。しかしエルヴィスはその中から立ち上がりました。少しでも可能性があるならチャレンジしてみよう。自分に対する尊厳、信じる心こそ、エルヴィスの偉大さなのです。パフォーマンスに潜む人への優しさ、機微が声に含まれて、歌として表現されているから胸を打つのです。

「あの日どうしてそんな気になったのかはっきり覚えていないが、自分の声がどう聴こえるるか知りたかった」自分の意識としては、それはその通りかも知れません。
しかし誰にも扉は開かれていた。サムは「いつでも誰でも」と看板を出していたのです。
でもエルヴィスほどに人は行動できないのです。

『エルヴィス登場』にもあります。なぜ多くの夢見る若い歌手や奏者がすぐ近くにある「メンフィス・レコーディング・サーヴィス」に行き録音しなかったのか?自分の知識や経験なりを少し超えた範囲の成功を夢見ることができた若いエルヴィスほどに、他の者は無邪気でなかった、あるいは率直でなかったのかも知れない。多くのミュージシャンに質問したが「考えもしなかった」という回答。みんな他のことに気をとられていたのです。

なぜでしょう。

また、エルヴィスは黒人の物真似をしたという意見もあります。まったく馬鹿げた意見です。
白人と黒人の境界がはっきりとあった時代に、エルヴィスはその一線を超えたのです。
文化に捨て身でチャレンジした勇気こそが注目するべき点なのです。

それはエルヴィスが唯一才能を発揮できる場であったのかも知れません。
だからこそ敢えて突き進んだのでしょう。でも才能があっても97%の人は進めないのです。
1953年7月18日、エルヴィスは<マイ・ハッピネス>でたったひとりの戦いを開始しました。
1954年1月4日、そして3/100の世界に突入したエルヴィスはさらに97%が脱落する次の世界へ突入していったのです。音楽的にも、文化的にも突進したのです。

時とともに、エルヴィスは次第にかってのように「事件」となるような創造的な仕事をしなくなりました。そのために評価を低くする方も多いようです。しかし決して無為に過ごしたわけではありません。

ことさら美化するつもりも、神格化するつもりもありません。
ただ忘れてならないのは、エルヴィス・プレスリーの真の偉大さは、悪い状況のなかで「平凡な人間」だと思い込まされた人間が、「自分の非凡」を信じてありのままの自分を求めて行動したことです。
夢を追いかける自分にこそ本当の自分がいる。ピエロにはそれは簡単なことには思えないのです。

さらに、そのような状況の中で、幼く柔らかい心と視線で会得した人への想い。幼くして知ったうんざりするような生活をしている人たちの思いを、またそのような人への想いを、終生、歌でしなやかに語り続けたことです。
エルヴィスは<マイ・ハッピネス>を求めて人知れず自分だけの戦いをはじめ、人知れず最後まで戦いました。その戦いは時とともに壮絶になったように思います。最後までありのままの自分をありのままでない自分の中から創造し続けようとしたからです。もし、そうでなかったら、病気になることもなく、あんなに早く亡くなることもありませんでした。

ELVIS WEEKが今年もやってきました。21世紀最初のELVIS WEEKです。
やっぱり悲しいね。だけど、悲しい以上に、ありがとう、エルヴィス。

「キングを忘れるな」それは「マイ・ハッピネス」を忘れるなということ。

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