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演技の勉強はほとんど独学による努力だったが、「燃える平原児」や「恋のKOパンチ」などでは捨てがたい味の演技を披露した。こうして契約した映画出演をすべてこなしたが、エルヴィスが望むような作品に出会うことはなかった。
エルヴィス・プレスリーという特異なキャラクターの自然な結果だったのかも知れない。
エルヴィスが望むような作品を制作するには自費で制作するしかなかったかも知れない。
そのどれもがエルヴィス主演映画の「収益構造」ゆえの運命だったといえる。
映画製作者の立場に立てば、確実に見込める収益を度外視してあえて冒険をする理由がなかったのだ。
エルヴィスが望む映画は他の俳優でもできた。観客を劇場に集めるためにエルヴィスにしかできない映画を作りたかっただけなのだ。
ハル・B・ウォリスが最初に悩んだ問題はその問題ではなかっただろうか。
誰でもが悩む問題だが、それも 「エルヴィス・プレスリー」を絶対的に肯定した結果の悲劇である。
「ウェストサイド物語」や「スタア誕生」など、数少ないチャンスもあったが、パーカー大佐は出演料と絶対的主演を理由に断ったと伝えられている。
バーブラ・ストライザンドはジュディ・ガーランドが主演した往年の名作「A
Star Is Born(スタア誕生)」のリメイクに主演、その共演をエルヴィスに申し入れるため、1974年8月19日、ラスヴェガスで公演中のエルヴィスを訪問した。
この申し入れを エルヴィスはかってないほどに乗り気だったと伝えられている。
多くのミュージシャンがハリウッド映画に主演、出演したが、エルヴィスが望む形で一応の成功をおさめたのはフランク・シナトラだけある。
そのような形の成功を本当にファンは望んだだろうか?
誤解を恐れずに自分の意見をいうなら「ノー」である。
シナトラは映画を必要とした時代に生き、「舞台」として必要とした。
エルヴィスも世界に見せる「装置」という点では映画が必要だったが、その立場は微妙に違う。
他の俳優にできることヲエルヴィスに求める理由はない。
映画とエルヴィス、ないものねだりは死者にムチ打つようで可哀想である。
人は誰もが、それぞれの、その時代に生きている。
時代を抜きにして語れないことがある。
エルヴィス映画を批評しても得ることはなにもない。
むしろエルヴィス映画を通じて「時代」や「その他もろもろ」を考えることのほうが意味がある。
その意味で、エルヴィス映画には脚本を超えて、語りかけてくるもっと雄大なものがある。
それを汲み取るのは、受け手側の責任であるように思う。
コンサート活動に復帰後、1970年8月のラスヴェガス公演、そのリハーサル風景を収録したドキュメンタリー映画「Elvis:
That's the Way It Is(エルビス・オン・ステージ)」が公開された。
この作品はそのタイトル通り、本物のエルヴィスを世界に露出したことで世界的に大ヒットとなる。
日本でも劇場には長蛇の列ができた。その当時の風景はいまでも語りぐさになっている。
「エルビス・オン・ステージ」この作品はいまも全国でリバイバル上映されている。
その後、1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画「ELVIS
On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)」が製作され、やはりヒットする。
日本ではシネラマ公開されたことが、エルヴィスの生の迫力を伝えきれない思いが働いたことを物語っている。
エルヴィスが主演した映画は劇映画31本、ドキュメント映画2本、合計33本だった。
その中から、<Love
Me Tender><Jailhouse
Rock><Can't
Help Falling In Love>< Viva
Lasvegas>など数々のスタンダードナンバーが誕生した。
さらにエルヴィスの死後の1981年、生前の映像を中心に構成した彼のライフ・ストーリー的映画「This
Is ELVIS」が公開された。 このドキュメント映画を含めると34本になる。
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エルヴィス・プレスリーの軍歴
1957年、当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行していて、徴兵期間は2年間だった。
エルヴィスの入隊は、エルヴィスにもファンの大きな関心だったが、ロックンローラーとして人気絶頂期にあった1957年12月にメンフィス徴兵委員会から徴兵令嬢を受け取り、身体検査を受ける。
その結果エルヴィスはアメリカ陸軍への1958年1月20日付で出頭の徴兵通知を受ける。
しかしエルヴィスはパラマウント映画「闇に響く声」を1月13日から撮影予定であった。パラマウントは35万ドルの損失が生じるため、入隊延期を徴兵局に申し入れたが、徴兵局はエルヴィス本人による嘆願を要求した。
早速、翌日、エルヴィスは徴兵局へ出向き、個人的な都合でないことを主張、延期の嘆願をして、入隊は3月24日まで延期された。
エルヴィスは特例措置を受けることもできたが、規定通り3月24日に入隊する。
ファンは入隊反対のキャンペーンを展開。大騒動になり、その顛末はブロードウェイ・ミュージカル「バイバイ・バーディー」になり、さらに映画化された。映画化ではアン・マーグレットが主役に抜擢され、アン・マーグレットは「ラスベガス万才」でエルヴィス本人と共演する。
1958年3月24日入隊、9月22日には西ドイツに向け出発。一般の一兵士として勤務した。
エルヴィスの愛国精神は多くの米国民から賞賛されたが、その一方でこの徴兵に不満を持っていた者も少なくない。
当時は繁栄の陰に、第二次世界大戦の余韻も残っていて、原爆の脅威を感じながら、ソ連(ロシア)との冷戦に対して恐怖心を持つ人も少なくなかった。
「エルヴィスの徴兵は、国民の思想・世論・意識・行動への誘導を目的とした政治的な宣伝であるプロパガンダだ」という意見もあった。
エルヴィスは軍在籍2年の間に、空手の黒帯を取得した。また扁桃腺炎を患ったが、ドクターはエルヴィスの声の変調を恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、無事に回復した。
その結果は除隊後の爆発的大ヒットナンバー<It's
Now or Never>で確認できる。
エルヴィスは軍曹まで昇進したが、1960年3月5日に満期によって除隊した。
兵役を無事完了させたことから、その愛国的態度が再評価された。
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グレイスランド(Graceland)
エルヴィス・プレスリーは現在テネシー州メンフィスにあるグレイスランドに眠っている。
生涯エルヴィスは「グレイスランド」を自宅とした。
グレイスランドは、スターになったエルヴィスが1957年3月16日メンフィス郊外に母グラディスのために両親に贈った邸宅である。
また愛妻プリシラと暮らした愛の巣であり、最後の瞬間を迎えた場所であり、永遠の別れが執り行われた場所である。
グレイスランドといのは、グレイスという女性が住んでいた邸宅をエルヴィスが買い求めたことに由来する。
エルヴィスが亡くなった翌日には推定13万人がグレイスランドを取り囲んでいた。
200名の警官が群集の整理のために、120名の医療チームが暑さと悲哀、疲労で倒れる人々の手当てのために、グレイスランドに配備された。
葬儀にはジャクリーン・ケネディ元大統領夫人、ジョン・ウェインらアメリカを代表する顔ぶれが参列したが、人々は泊まるところもなく、アスファルトの路上で夜を明かした。
一時遺骨はメンフィスの墓地に納骨されたが、遺骨を奪おうとする事件が後を絶たず、現在はグレイスランド内に両親の墓とともに眠っている。
毎年命日である8月16日をメインに1週間エルヴィス・ウィークが開催されている。いろんなイベントが開催されるが、最大のイベントは16日夕刻から翌日にかけて行われるキャンドル・ライト・サービスだ。
5万人とも6万人とも言われる人々がメンフィスの白くキツい日差しが和らぐ夕方から翌朝まで毎年数万人の参列が続く。
またロックンロールの整地として、世界的に有名な多くのミュージシャンがエルヴィスへの愛と尊厳を持って現在も訪問している場所でもある。それに関して大物ミュージシャンの逸話も数多い。
映画「グレイスランド」「ミステリー・トレイン」はここを舞台にした映画である。
また、 サイモン&ガーファンクル のポール・サイモンが1987年に発表した『グレイスランド(Graceland)』(グラミー最優秀アルバム賞)は、ここからインスピレーションを得たものだ。
尚、グレイスランドが位置する通りは、存命中から公式にエルヴィス・プレスリー大通りと命名されている。
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(プリシラ、リサ・マリー、エルヴィス・プレスリー)
プリシラ・アン・ボーリュー
エルヴィスは駐屯先のドイツで所属部隊長の継子、プリシラ・アン・ボーリューと出会う。
エルヴィス24才、プリシラ16才だった。
1958年8月12日母グラディス急遽。兵役中の出来事だった。
除隊による帰国後、エルヴィスはプリシラの母親と継父を説得、当時まだ未成年であったプリシラをメンフィスに招く。
エルヴィスの心の人になっていたプリシラは、再婚した父バーノン夫妻らとともにグレイスランドで同居する。
グレイスランドのあるテネシー州メンフィスでは18歳になれば親の同意なしに結婚することは可能だったが、ふたりは8年後まで待った、
そして 1967年5月1日、ラスベガスのアラジン・ホテルで結婚式を挙げる。
1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリー(Lisa Marie Presley)が生まれる。
それから4年後、雑誌報道で浮気がゴシップになる。
プリシラは孤独感からは4歳のリサを連れて離婚する。
初めての出会いから14年に及ぶプリシラとの関係は、離婚後も終わることなく、時に苛み、時に支えになって続いた。
2006年6月30日、小泉純一郎元首相がブッシュ大統領とともにグレイスランドを訪問したときに迎えたのは、プリシラとリサだった。
エルヴィス24才、プリシラ16才の運命的な出会いから、かわいすぎたカップルは、エルヴィス、享年42才と7ヶ月。プリシラ・アン・ボーリューは人生のパートナーであった。
尚、エルヴィスとプリシラの孫娘、つまりリサ・マリー・プレスリーの娘、ライリー・キーオ(Rley
Keough)は2006年ディオールの顔としてモデルとしてのキャリアをスタートさせた。エルヴィス、1956年のメジャーデビューから50年後の挑戦だ。
エルヴィス・プレスリー
出生地 ミシシィッピ州イースト・テュぺロ
誕生日 1935.1.8.4:35.A.M(山羊座)
1977.8.16.14:30.PM(42歳7ヶ月)
兄 弟 双生児として誕生、兄Jesee Garon Presleyは死産
血液型 O型ポジティブ
身 長 183cm
目の色 ブルー
髪の色 ブラウン系ブロンド(黒に染色)
宗 教 キリスト教(9歳で洗礼を受ける)
軍 歴 1958.3.24入隊、1960.3.4除隊(軍曹)
駐屯地 西ドイツ、フリードバーグ
定住地 テネシー州・メンフィス. グレイスランド(1957年に購入)
3764,Elvis Presley Boulevard,Memphis,Tennesee
趣 味 空手(黒帯8段)、バッジのコレクション、フットボール、クルマ、バイク
好きな色 黒、ブルー、ピンク
社会保険番号 409.52.2002
偽 名 John Burrows
好 物 ピーナッツバター&バナナ・サンドイッチ
(いまではレストラン:エルヴィスプレスリー・メンフィスのお勧め料理になっている)
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