「ほめることと励ますことは、よく似ている感じがして、なれない内は、その使い分けに戸惑うと思います。
しかし面倒がらずに、励ます技術を身につけるようにしましよう。
でも、なぜそこまでこだわるのか、不思議に思う人もいるでしょう。
それは「ほめる」ことと「励ます」ことは、似ているように思えても、実際には全然違うからなのです。
では、その違いを説明していきますね。
まずどんなときにほめると思いますか?
ほめる時って、上司、親、教師など上位にある人が自分の期待していることを、部下、子ども、 生徒など下位の人が達成してくれた時です。
このように「ほめる時」には、ほとんど上下関係が存在します。
では、「ほめる」と「励ます」の違いを見てみましょう。
成功すれば、ほめることはできますし、励ますこともできます。
失敗して、ほめることはありませんが、励ますことはできます。
このように、ほめる場合は条件つきになってしまいますが、励ます場合は、あらゆる状況、無条件に励ますことができます。
よく無償の愛と言いますが、無条件であることが大きな特長です。
条件なしでもできる励ましは、信頼し合うことが容易です。
一方、ほめる場合は、どうしても条件つきになるため、信頼関係を築く上で難しくなります。
さらに、ほめる場合は、「その行為をした人」が 対象ですが、励ます場合は、「行為そのもの」が対象です。
その行為をした人を称えるのがほめることですが、不思議なことにほめられた場合には、自分が尊重されていると感じとれません。
相手を尊重することは、良好な人間関係を築く上でも、自立心を育む上でも、基本中の基本ですが、ほめられた場合には、尊重が感じ取りにくいのはなぜでしょう?
ほめる場合は以下のような問題を含んでいます。
●ほめる側の関心のある場合に限られてしまう。
●そのため、一種のほうびになる。
●つまり報酬、取引のニュアンスを持っている。
●そのため、ほめられる側の人がどうしても上位者の顔色を見るようになる。
以上の理由が、信頼関係を築く上で障害になります。
だれにとっても人生の主人公は自分自身であり、ほめてくれる人のために、人は生きていないからです。
励ます場合は、以下のような特徴があります。
●励ます側の関心ではなく、励まされる側の関心のあることで励まされます。
●ありのままの共感
●上位者でなくても励ますことはできる。
●励ましてくれた人の顔色を伺う必要がない。
上位者が相手の関心のあることに関心を持ちますので、励まされた人は「自分は上司に関心をもってもらっている」と感じることが出来ます。
「行為そのもの」が対象になる励ます場合は、自分の行為に注目してもらっていることが分かりますので、自分自身への関心を感じます。
事実、行為そのものを対象として称えるには、その人の行為を掌握しないとできません。
それが「共感」なのです。
つまり励ましは共感なしには起こりえないのです。
人は幼いころからの経験で無意識に知っているからこそ、励ましがうれしいのです。
「その行為をした人」が対象になるほめる場合は、上位者の関心事が達成されたことでほめられますので、自分への関心ではないことを感じ取ります。
「今月は目標を達してくれたね。よくやったね」
このようにほめる場合は、その場限りの満足感を刺激します。
継続性がないので、ほめられた人は、またほめられたいと思います。
そのためどうしても依存的な態度が強化されます。
結局、相手の顔色を伺う習性が身につくように強化されます。
このような習性は、周囲の評価を気にする気質を強化します。
結局、集中力を欠くことはあっても、不安の種が増えるだけになり、無用な苦しみを増やすことになります。
このため架空売上や問題隠しなど、企業内犯罪に発展することも少なくありません。
仕組みとしてはアルコール依存症をはじめとする一連の依存症と同じです。
「ロープレを繰り返し行い、アプローチを飛躍的に増やしたことが達成につながったね」
励ましによって自立心が育まれた場合には、問題解決に挑戦的に取り組んでいけるようになります。
モチベーションをアップするつもりで、安易にほめることで、意図とは反対に、どんどん悪くしてしまうことにもなります。
ほめる側の人の配慮がとっても重要になります。
励ます場合は、内容が具体的なこともあって、今後につながる継続的な意欲づけになります。
その意欲は自らを励ます力になり、自立心が強化されます。
褒められた場合と違って、自分以外の人や物に依存的になりません。
以上のことから、失敗した場合の受け止め方が、ほめる人と、励ます人では決定的に変わってきます。
励ます人の大きな特長は、失敗を肯定な意味にとらえます。
■失敗に対して否定的にならない
つまり他者を励ます場合もそうですが、自分を励ます場合も、そうですので、失敗した場合を反省(学習)の機会と合理的に考え、次の行動に挑戦的に役立てることができます。
失敗を否定の意味にしか考えない人は、自己否定、自己嫌悪になりやすいため、感情的になったり、感情で判断してしまいます。
反省(学習)の機会と受け取れないため、次の行動に役立てることが不得意です。
つまり、挑戦的になれないので、同じ失敗を継続的に行います。
そのため敵対的、競争的になりやすくなります。
自分自身で気をつけたいものです。
励ます人は失敗をどのように肯定的にとらえるのでしょうか?
1)失敗は挑戦の証
2)失敗は学習の機会
人はどんなことに対しても、どんな場合でも、その本人の考え方に委ねられています。
つまり何事も自分で決定できますし、責任もとれます。
失敗をどう考えるかも、自分で決定できるです。
▼以下10 項目は失敗に対する考え方の例です。
1)あなたの失敗は、あなたが失敗者ではなく、まだ成功していないということです。
2)あなたの失敗は、あなたが何も達成しなかったということではなく、何かを学んだということです。
3)あなたの失敗は、あなたが愚かな人だったということではなく、大きな目標をもっていたということです。
4)あなたの失敗は、あ准たが恥をかいたということではなく、積極性をもっていたということです。
5)あなたの失敗は、あなたが無謀だったということではなく、もっと違った方法でしなければならなかったということです。
6)あなたの失敗は、あなたに能力がないということではなく、完全ではなかったということです。
7)あなたの失敗は、あなたが人生を浪費したということではなく、ふたたび出発するチャンスがあるということです。
8)あなたの失敗は、あなたは諦めるべきだということではなく、一生懸命努力すべきだということです。
9)あなたの失敗は、あなたが完成できないということではなく、それはもうすこし時間がかかるということです。
10)あなたの失敗は、あなたを神が見捨てたということではなく、神はもっとよい考えをもっているということです。
▲以上の、どの文章に惹かれますか?
物事をどう判断するかは、本人に委ねれています。
「ピンチはチャンス」という言葉もあるように、ピンチをチャンスととらえて成功した事例はいくらでもありますし、反対にチャンスであったのに、チャンスと受け止めず、絶好のチャンスを逃がしたために、ピンチに陥った事例もたくさんあります。
いつも自分で決定できるのですから、自分のマイナスにならないように考える力を日頃から養いたいものです。
そうすると、いままで避けていたことに避けずに取り組むことが出来、想像を超える成功を手中におさめることも可能になります。
失敗を自分や周囲のとって有効なものにできるように、さらにもう少し整理しておきましょう。
ところで、失敗と、不適切な行動は同じだと思いますか?
たとえば、決められた日時までに報告書を提出するようになっているのを、間に合わすことが出来ないようの場合、これは失敗でしょうか?不適切な行動でしょうか?
失敗は、ある目的や意図を持ってやっていることでなく、偶発的なたまたまの結果です。
一方、不適切な行動とは、特定の相手や事項に対して迷惑をかける目的・意図のある行動です。
ですから失敗には、学びと挑戦の機会がありますが、不適切な行動にはそれがありません。
挑戦する意欲発揮の機会や、学習効果とは無縁です。相手への共感がなく、励ます力がないと言えます。
管理する立場にある人にとって、厄介なのは失敗よりも、不適切な行動ではないでしょうか?
次に不適切な行動とのつき合い方について説明します。
■ダメだしをやめ、ヨイ出しにする。
人の行動のほとんどは適切かつ建設的な行動をしている場合が大半です。
しかし注目のウェイトは不適切な行動に集中しています。
その是正に躍起となってしまう傾向があります。
重要な20%の行動に不適切な行動が多く見られる場合は、手を打っていく必要がありますが、そうでない場合もあります。
バランスをよく考え、どうでもいいダメな部分に注目せずに、大半のヨイ部分に注目しましよう。
たとえば遅刻せずに出社することは当たり前といえばそれまでですが、適切な行動です。
当たり前のことを当たり前にやることで、秩序ある運営ができていることを思うと、その点に触れて、励ますことは大切なことです。
それによって自尊心が高まるにつれ、自立心が強化されると、成長に拍車がかかります。
当たり前のことを当り前として無関心にして、自尊心を大切にしないでいると、そのような成長のきっかけも、チャンスも失うばかりか、自尊心を踏みにじってしまうことにもなりかねません。
アサーティブを学ぶ
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